悪が、猛威を振るう。

奇妙な社会現象だと思わないか。被害があるから抗議しているのに、役場も政治も「アホよら」と笑いものにする。被害者同士でも悪口の言いたい放題で、とても低周波音被害の苦しさが発信できない。精神疾患のものと言われて久しい。海外では、どこでも風力反対の烈しいデモが行われている。日本だけ、それがないのだ。いや、あるように見せかけて、それは地域対策の罠であった。

被害者たちを密閉して閉じ込める、悲惨なゲットーを見ただろう。ヘンな人、いずれ死んでいく。厳しい監視の優性思想。それはアカン、と否定される。否定された人たちの末路に人々は大喜びだ。とくに指示されたわけでもないのに、差別意識が過激になる。憎しみの的よ。だから被害者が死ぬとみんな大喜びするんやで。地獄の風景だとは誰も思わない。楽しいのだ。

5/3日の産経記事には、秋田や山形の風力発電が誇らし気に書かれている。この周囲には人が住んでいるんでしょ。ここの何人かの人と話したけれど、言葉の意味が通じることはなかった。風力被害地になると、そこの人は必ずヘンになる。由良町で見てきたから、間違いようのない変化に気が付く。人間感覚がなくなる。自動人形。ロボットの様になる。摺り込まれたマントラを、誰もが繰り返して話してくれる。

風車の建設前からそうなるから、特異な低周波がすべての原因ではないことが分かる。大学とか、学識者もいるだろうに、ジャーナリストもいるのに、何一つ、低周波被害の実態を言葉にすることはない。見事な心理コントロール、社会操作やないか。この地域では以前、「市民風車に被害はない」と聞いていた。北風をエネルギーに変えて送電する、とかね。カルトでしかないのに。どうしても抵抗できないらしい。

笑えるのは「風力日本一」と書いた幟を作ってお祭りをやっていた。これって、50年前の原発音頭を踊ってお祭りやっていたのと同じ光景だ。田舎者のアホらしさよ。バカらしさが分からない。風力発電が出来る町、それだけで住民の意識レベルの低さが際立っている。全国に風力地域があるから見たら分かるで。由良町や、その周辺の町役場に聞いてみな。私の悪口と、被害はありません、と笑顔で答えてくれる。

被害者は人ではないし、カウントされないんだよ。人とは見なされない。どちらの側に立っても、動物園を見るようじゃないか。私は風力裁判をやられたから、いかに人々が被害者をアホにして喜んでいるかを、これでもか、と思い知った。被害者たちも喜んでいるから、オマケもすごかったんやで。東北では風力裁判は聞かないね。雉も鳴かずば撃たれまい。ジッと身をひそめて黙っている。

いや、風力バンザイと言っている。カネ儲けのダシよ。こんなトコに住みたいか、と私は書いてきた。誰も見向きもしない。当たり前か。暗澹たる思い。もはや話し言葉で、風力被害の酷さを聞いてくれる人はいない。h24年当時、畑地区の被害者たちの苦しみや悲しみ、死は何だったんだろう。人間性を奪われて、弾圧の嵐だった。差別地という現実がよく分かった。ほっとけ。相手になったらアカン。

当初から畑地区の人自身が被害を否定していた。社会性だね。それを教えてくれる人が周囲に何人もいた。「エライ目に遭ったな。関りになったらアカンで」とな。10年経った今も、まったくその社会性は定着している。反省も後悔もない。「風力の被害など聞いたこともない」と言っている。ナニ、誰でも本当の事を知っているけどな。それが可笑しいと言うだけさ。SNS、twitterなどでも、全く風力被害の記事はない。

被害を訴える人がいないのだ。利に聡い、世渡り上手よ。各地には塗炭の苦しみに狂う、風力被害者がいる。そうなったらもう人じゃないから弾圧を加えて消し去る。由良町で行われた殺人事件が、堂々と各地で盛大に実行されている。因果関係はありません、と。悪党の喜びようよ。誰が悪いのか、個人的な資質がよく見えたでしょ。私は百円売り場をやっているけど、品物を盗む人は決まっている。

ごく少数の悪人がいる。でもそんな悪党の真似をしていたら社会が成り立たない。つまりな、風力被害を見ていて、とうに社会が破壊されている現実よ。哀れな被害者の苦しみや死を思いやれないか。その意志こそが人間の証明やで。否定するものは人でなし、という。